再び、中田英寿の誤算の周辺をウロウロと…南アフリカWCの日本代表を振り返る、その4

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前回、若干ながら脊髄反射的なコメントを頂いたのですが、今回も或いは同じようなリアクションを頂戴する可能性がなきにしもあらず。。。

ということで、皆さんは中田英寿さんのこと、好きですか?

もし、丁寧に幣ブログを読んでいただいている方がおりましたら、薄々バレているかと思いますが、ついついワタクシは、どちらかというと、ネガティブな評価を彼に与えてしまいます。いや、別にアスリートとしての彼にケチを付ける気持ちは毛頭ないんですよ。ただ、彼のモノの考え方に対し、両手を上げて賛同できないと感じることが、しばしばあります。

例えばそれはWCで日本代表がパラグアイに負けた直後。このとき中田さんは「ポテンシャルなら日本代表の方が上だったのに、勿体ない」といった要領の感想を述べられていました。何度も何度も盛んに「ポテンシャルなら日本が上」と繰り返していました。

いやいやいや。

待て、と。

「ポテンシャル」ってなんだ?

辞書をひけば、多分、「潜在能力」だとか、「その人が本来ならば発揮するものと期待される全能力」だとか、そんなことが書いてあるのでしょうが、ここでは、そんなことはどうでも良いわけで。

辞書に載っている意味なんていうのは、「そういう風に使われることが多い」ってだけのことであって、「それ以外の意味で使ってはならない」わけでは決してありませんからね。

自分の考えているイメージを一定度以上、他者に伝えることができれば、それが、「言葉が適切に機能している」ということなので、個人的には他人に対して受験勉強的に「その言葉の使い方はおかしい」って揚げ足をとる行為に、一切の正当性を感じなかったりします。それはテスト用紙においてのみ成立する正義だ、と。

で、中田さんが「ポテンシャル」という言葉に、どのような定義を与えていたかを、話の脈絡から類推するに、おそらく「技術力やフィジカルなど、サッカーで勝利するために必要とされる物理的能力」といった感じだったと思われます。「ポテンシャルなら日本が上」の後には、必ず「試合運びであるとか要領の良さが足りずに勝てなかった」みたいな内容がくっついていましたから。

個人的には、そういうメンタリティ的な部分も含めたものが「サッカーのポテンシャル」なんだろうと思うのです。

逆方向に極端な言い方をすれば「技術が高いだけでメンタルはサッカー的でないから、日本人のポテンシャルは低い」って評価も可能だと思うのですよ。

まぁ、何をサッカーにおける「ポテンシャル」と考えるかは、十人十色で構わないでしょうから、その辺りの意見の相違をヤイヤイ言っても仕方ないのですが、一連のコメントを聞いていて、「この人は本当に頑固なんだなぁ」と感じてしまいました。

中田さんの発想は、おそらく20代前半から一貫してます。

「サッカーにはヨーロッパ風の個人主義的メンタリティが必要だ→日本人にはそれが欠けている→だから日本人もそれを身につけなければならない」

もう、これに尽きますよね。

上のような発想をするということは、「日本人もヨーロッパ的メンタリティを身に付けることができる」と言う前提をお持ちなんだと推察します。

ワタクシは、その部分に全く共感できないんですね。過去に何度か述べましたように、「人間は社会的生物だぞ」、と。社会的価値観から隔絶して生きることは不可能ではないか、と。

「日本のサッカー選手もヨーロッパ的メンタリティを身につけなければならない」ってのは、「日本の陸上選手は、ボルトばりの身体能力を身につけなければならない」と言っているのと、理不尽さでは等価なのではないかと考えてます。

まぁ、それでも、まだ、この点についても、「見解の相違」です。基本ザンネンなワタクシでも「価値観が異なることを理由に他者の評価を下げる」なんてルール違反はしません。

ただ、どうしても違和感を感じるのが、彼がなぜ「日本人もヨーロッパ的メンタリティを身に付けることができる」と考えるか、という点です。客観的根拠を求めた上で、そのような結論になるとは考えづらいので、おそらく「自分がヨーロッパ的メンタリティを持ち得たから」という根拠だと思うんですね。

彼の個人主義と、ヨーロッパ人が総体として保持している個人主義が、全く同じものなのか、似て非なるものなのか、これはこれで興味深いですが、仮に同じものとしましょう。

その上で、彼が「ヨーロッパ的個人主義」ゆえにアスリートとして大成功したからといって、必ずしも、それが、サッカー選手として、或いはサッカーチームとして成果を収めるための唯一無二の絶対的方法論ではないだろう、と。「あなたはそれで成功したんでしょうが、あなた以外の人も、あなたと全く同じやり方をしないと成功できないってわけではないでしょう」、と。

よく「自分の成功体験を絶対化する上司はダメ上司」なんてことを聞きますが、そういう意味で、中田さんは、もし自分の直属上司だったら、相当、うっとうしいんだろうな、と思うんです。メンドクサイヒトなんだろうと。

要は、彼は自分の成功体験を絶対化し、一般化しているわけで、それは、失礼ながら、「思い上がり」だろうと、ワタクシは個人的に感じるっていう話です、ショウミノハナシ。

それに対して、本田は、案外、比較の上では柔軟なのかなぁ、なんて思います。

中田さんの場合、若い頃から、絶対的な存在として崇拝の対象になってしまった。その一方で、本田のばやい、多分、合宿地のスイスあたりで、彼の憤りを和らげてあげられる年長者がいたんでしょうね。「必要な妥協」は、ちゃんとできるようになったように見受けられました。ロシアのクラブで監督と引き起こした確執においても、なんだかんだで「落としどころ」を作りました。

多分、中田さんはフロンティアゆえに突っ走らなければ仕方なかったと思うんです。立場上、否応なしに、極端にならざるをえなかのではないか、と。

本田は、そういう意味での無茶走りをしなくてよい。それは中田さんが道を切り開いて以降、少しずつ、海外の良い部分を取り入れる作法がスマートになってきたということを示しているんだと思います。本田の活躍が南アフリカでの躍進に繋がったとするならば、中田さんのときの「フロンティアゆえのやりすぎ」を、本田が担わなくてもよくなったから、すなわち海外経験を代表に注入するための作法がこなれてきた、って要素もあるのかなぁ、なんて思います。

いずれにせよ、チームワークが顕彰された南アフリカでのベスト16は、日本代表が躍進するためには、中田さんが言うような「遠慮なく自己主張をぶつけ合うチーム」ではなく、「なんとなしの相互了解(=空気を読んで、気を遣い合う)のもと、粛々と自分に課せられた役割をこなしていくチーム」であることが必要だと立証したのではないでしょうか。

そして、それは多くの人にとって「日本人社会って、そういうところが面倒くさいし、息苦しいよね」って要素だと思いますが、でも結局、日本人ってそうやって生き残ってくしかないよねってことを雄弁に物語っているような気がします。