ハリルボジッチに対する世間的評判の周辺をウロウロと…

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いやあ、苦戦してますね。新生日本代表。それと比例するようにハリルホジッチへの風当たりもずいぶんと厳しいものになっている。まあ、プロの監督ですからね。結果が良ければ誉められて、悪けりゃ批判される。それはそういうものだと思いますが、それにしても、なんか、特にスポーツ新聞とかに顕著ですけど、必要以上にバッシングされているような感がしなくもない。そこで、なぜそういうことになっているのかを考えてみました。

まず、押さえておくべきは、あまり日本では有名でなかったハリルさんですが、来日してしばらくは、その厳しそうな強面に、けっこう期待が集まっていた、ということです。ザッケローニは対照的に柔和な表情と語り口で日本人の心を掴んだわけですが、そのザックがワールドカップにて日本サッカー界の実力相応しか発揮できなかったことで、「ザックは選手の主体性を尊重しすぎたのではないか」との声があがり、反動的に、スパルタな顧問の先生みたいな人材を待望する世論があって、そことハリルさんは上手くマッチした。

そもそも日本人社会は年功序列で成り立っている。その時々の若者や、新興企業のトップランナーが、そこにアンチテーゼを唱えても、結局は年功序列で落ち着いている。今後も無限ループで年功序列批判はあがるでしょうが、そういう人々も歳をとれば年功序列の恩恵をこうむる側に回りますからね、変わりません、きっと。で、そういう年功序列社会だと、リーダーには「威厳のある年長者」か「担がれ上手な年長者」のどちらかが歓迎される。

で、前者型のリーダーとして、圧倒的な指示を得たのがオシムで、当初、ハリルさんにもオシムの幻影が投影されていたように思います。果たして、就任当初のハリルさんは、厳しい物言いで選手に接し、そして、結果も鮮やかに出してみせた。ワタクシも含めて少なくないサッカーフリークが、その手腕に魅力されました。ザックとは正反対の、パスをこねくり回さない縦に速いサッカーは一種の爽快感があり、ブラジルで突きつけられた現実を忘れさせてくれる麻薬のような作用がありました。

その夢の国から、我々を一気に現実へと引きずり戻したのが、ハリルさん初めての公式戦となるワールドカップ予選。シンガポール戦ですね。例によって、例のごとく、アジアでも苦戦するんですよ、日本代表は。これはもはや普遍の法則。ハリルさんなら、その普遍の法則を突き破ってくれるんじゃないかとの期待が大きかった分、やはり現実は現実だと突きつけられたときの失望は大きく、このあたりから、やおら、風向きが変わりはじめます。

そのような風向きの変化が決定的になったのが東アジアカップ。この大会、そもそもがムチャクチャでした。だって、国内のリーグ戦でも平日に試合があって、例えば「土曜日→水曜日→日曜日」と試合があれば「過密日程だ!」とヤンヤ言われる。なのに、この大会では水曜日に国内リーグ戦があって、その週末に海外で代表戦だったんですよ。国内リーグ戦でもこんな間隔だとコンディション調整しかできないのに、海外への移動距離があって、かつ、初顔合わせみたいなメンバー構成。ろくに戦術練習もできないまま大会突入。完全なムリゲーです。

で、ハリルさんは、その客観的状況をそのまま説明した。ホント、ただの状況説明。なのに、こぞってスポーツ新聞は「ハリルホジッチ、早くも言い訳連発!」みたいな報道をした。いやいやいや、と。言い訳でもなんでもないだろう、と。なぜ、こうなるのか、思うにハリルさん、マスコミにあまり好かれてないのではなかろうか。

じゃあ、なぜ、好かれてないのか。思うに、ハリルさんの、当初は「威厳のあるリーダーかも」と期待を抱かせた物言いって、実は日本人との相性があまり良くないのかもしれません。オシムさんチックな「威厳とウィットのある長老」っぽい言動を期待していたところ、どちらかというと、「主張すべき自己主張はしっかりさせてもらいますぜ」系だった、と。

一見、「威厳とウィットのある長老」系と似ているようで、まるで非なるものだった。しかも、日本人が最も苦手とする「しっかりとした自己主張」。ここにスポーツ新聞の記者さんたちは戸惑い、そして、ハリルさんへの苦手意識を持ってしまったのではなかろうか。つまりですね、「オシムだと思っていたものが、実はトルシエだった!」ということなんですよ。トルシエも嫌われてましたもんね〜、・・・物言いが。実績だけみれば、あんな批判される筋合いはなかったはずなのに。なんかハリルさんも、そっちへの道へ片足突っ込んでしまっているのではないか。なんて思ったりするのです。

ワタクシ個人としては、「アジア予選で格下相手に苦戦=日本代表のデフォルト」「東アジアカップ=そもそもムリゲー」という認識ですので、ハリルさんに対する敬愛に揺らぎはございません。敬愛しているからこそ、「フランス語圏の文化と日本の文化は根本的に違う」ということを意識して、ムダに敵を作って欲しくないなあ、と思っています。