仙台大学、ジャイアントキリングを逃す〜ベガルタvs仙台大学(9月6日)の周辺をウロウロと…☆現地観戦記☆

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ええ、仙台まで行きましたよ。ユアスタ初見参です。

■前半

□挑戦者・仙台大学

J1のクラブと大学との対戦ですからね、弱者である仙台大学は必然的にディフェンシブになる。システムはゴール前をガッチリ固めるときの常套手段ともいえる5バック。541のフォーメーションで防衛態勢を整えます。注目されたのは、リベロに入った10番。10番でリベロって、なんだかワクワクしません? ちなみに山田満夫というらしい。なんと、前所属が松本山雅。後藤寛太コースですね。あるいは中町公祐コース。最近は珍しくなくなってきました。

仙台代表はチャレンジャーですから、アグレッシブにいくしかない。というかシュートが打てるのならば、確率は気にせず、ガンガンに打っていくしかしかたない。ファーストシュートも仙台大学でした。その後もボールを取ったらすぐさま前線。前線に繋がったら、すぐさまシュート。その繰り返し。徹底されていました。よく訓練されているということでしょう。すがすがしかったです。

□受けて立つベガルタ

対するベガルタは、受けて立つ側です。まずはプロとしての貫禄を突きつけなければならない。プロたるもの、ナメられたら終わりです。威圧して怯ませなければなりません。序盤からハードにぶつかってくる仙台大学に対し、例えば鎌田とか、あるいは渡辺とかいった選手が、必要以上に大げさに「こんなもんファールやろ!」ってアピールをする。いわゆる“かまし”ですね。「こっちはプロだよ!」ってなばかりの。球技の世界ではお馴染みの光景ですね。

逆に、そういう「プロとしての貫禄を示す」ってのを、間違った方向性で示したのがハモンロペス。「厳しさを突き付ける」と「悪い意味で余裕を持ちすぎるプレーをする」は、全く違うものです。相手最終ラインを簡単に攻略できたからって、余裕しゃくしゃくでGKを交わし、そのままコロコロとシュートを転がしたら、相手ディフェンダーの戻りが間に合って、ズササササッってクリアされるって、どういうことだ。おいおい。

■後半

仙台大学の反撃

前半は専守防衛だった仙台大学は、後半もしばらくは慎重モード。でも、55分を過ぎたあたりから、やおら、攻撃へのギアを上げ始めます。システムを442に変更するなど、点を取る気マンマン。勝ってみせようじゃないかという気概が伝わってきます。ちなみに仙台大学、その後は433にしてアタッカーの枚数を3枚に増やし、終盤にはセンターバックを上げてパワープレーを仕掛けるなど、堂々としたものでしたよ。

そういう、一歩もひかない姿勢を崩さずにいたら、神様も味方をしてくれるらしい。コーナーキックのチャンスで乾坤一擲のヘディングシュートが決まりました(決めたのは11番?)。こういう、「格上相手には少ないチャンスを確実にモノにしなければならない」って戦い方のときには、セットプレーしかないんですよね。そのセットプレーでのゴール。仙台大学が逞しかったのか、あるいはベガルタの守備に甘さがあったのか。

□諦めない仙台大学

ただ、ベガルタベガルタで情けない醜態をさらすわけにはいきません。後半途中で投入された金園の折り返しに菅井が頭で合わせて引き離しにかかります。決めた菅井は天皇杯恒例の「決めたけど、嬉しくないし。やっと決まったか、ヤレヤレ」って反応でしたけど、金園は、「公式戦でアシストしたぞ!」という好感度の高い喜び方をちゃんとしました。格下相手でもやっぱり公式戦でゴールを決めたなら、誠実に喜ばないと。

3点目が入ったことで、さすがに勝負あったかな、とも思ったんですけど、ここから仙台大学は立派でした。守備の選手が負傷したところ、アタッカーの24番を投入。その24番がファーストタッチで1点差に追い上げるシュートを決めてしまった。そこからタイムアップまでは、仙台大学の押せ押せモード。ジャイアントキリング一歩手前までベガルタを追い込みました。最終的にはベガルタが逃げ切りましたが、なかなかスリリングな試合を堪能できました。満足です。

■日本代表への推薦状

□推薦者

・廣瀬主審

□推薦理由

いやあ、前半のジャッジは仙台大学に甘かった。完全なファールスローなのに「持ち直しただけだから、もう一回投げなさい」って扱いにしたり、両者滑りあってイーブンなぶつかり合いになったらベガルタのファール。仙台大学のファールでも「アドバンテージを取りました」って建て前が通じそうなときは流してあげていた。

でも終盤になって、両チームがガチンコでしばきあうようになると、ファールの基準もガチンコに。プレーに明らかな格差はあるうちは教育的配慮を見せ、その必要がなくなると、それをしなくなる。いわゆる大岡裁き近代法的な法理でいけば、「不平等」ってことになるんですけど、近代法なんていうのは、ヨーロッパ的価値観であって、世界にいくつもある法意識の一つの類型に過ぎません。日本には日本の法理がある。大岡裁きの合理性を世界に知らしめて欲しいところです。