【御蔵出し】 ○○ジャパンの周辺をウロウロと…

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引っ越しかなんかの時に、それまで書き止めていたコラムめいたエントリーの下書きを保存したUSBメモリーを紛失したのですが、それが先日、発見されました。それを【御蔵出し】シリーズとして不定期連載していきたいと思います。そんなわけで本シリーズは、エントリーが書かれた当時の頃に記憶を戻してお読みくださいませ。

そんな【御蔵出し】群をいろいろ眺めていたら、先日、2ステージ制のシリーズの最終回と、ほぼ同じ内容のことが書いてあるエントリーがありました。「我ながら成長がない・・・」と赤っ恥ではありますが、ともあれアップしておきす。

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以前、とあるエントリーで皆さんとコメントのやりとりをする中で、「ザックジャパン」とか「ジーコジャパン」のような、「○○ジャパン」という表現についての話題が上がりました。そのときは、今ひとつ考えがまとまらなかったので、態度を保留させていただいたのですが、少しずつイメージも固まってきましたので、私見を述べたいと思います。

なんとなく気取った調子で導入してしまったので、せっかくだし、もう少し気取りモードを続けますと、神が作りたもうた(別にクリスチャンではないですが)この世の中の森羅万象には、不可避的に「陰」と「陽」があると思います。

人間で言えば、「長所」と「短所」ですね。長所しかない人も、長所が一つもない人も、ワタクシの貧しい人生経験では、出会ったことがありません。今回は「○○ジャパン」という現象についてですが、現象についていえば、例外なく全てにおいて「良い面」と「悪い面」があるんだと思われます。

まっ、「○○ジャパン」にも、功罪両面あるんじゃないか、っつう話ですね。今回は、よろしくない面について触れたいと思います。

話は飛びますが、ニュース番組を見ていますと、ときどき、「政治家に対して一言」みたいな街頭インタビューをやっていますよね。そうすると、商店街とかでマイクを向けられたオッチャンやらオバチャンやらが、「もっと政治家さんたちにちゃんとやってもらわな、わてら庶民は困りますさかいに」みたいなことを答えていたりします。

こういう呟きに対して、ワタクシ、いつも違和感を覚えるんですね。なんか、「世の中が上手くいかないのは、全て政治家のせい」みたいな思考を感じるのです。でも、それって民主主義の原則からすれば、笑止千万といいますか、「あなた、民主主義の本質を理解されてますか?」って話になるはずなんです。

つまり、民主主義とは、「政治家は放っておくと何をしでかすか分からないから、市民が監視し、コントロールしましょう」って制度なわけです。だから、政治が悪いとしたら、それは、市民1人1人が適切に政治家をコントロールできていないってことなんで、諸悪の根源は市民1人1人にあるってことになる。

要するに、「でも、そういう人を選挙に勝たせたのは、我々市民ですよ」ってことですね。彼らは市民の総意として政治家をやっているわけなので、責任の所在は、市民の側にある。

サッカーに視点を移しましょう。しつこいですが、再び布啓一郎氏に登場してもらいましょう。例によって、ユース代表がアジアの壁を超えられなかった件。以前のエントリーでも述べたように、この敗北を受けてネットの世界では、「布さんは日本サッカー界から退場してほしい」みたいな意見が少なからず噴出しました。つまり、敗北の責任は全て現場の指導者にあるとしたわけですね。

このテの意見の特徴は、「サポーターである自らも含めた日本サッカー界全体が敗北したのだから、自分も責任の一旦を担わなければならない」という当事者意識が、見事なまでに欠如しているという点です。このような意見がまかり通るところに、我々日本人の、市民社会なるものに対する意識の低さがあるように思います。

それが一概に悪いとは言いません。歴史的に日本人は「市民社会」なるものを必要としてこなかった、ただ、それだけのことでしょう。でも、制度として民主主義なんてものを導入した以上、やはり、その論理で身を律しなければ仕方ないわけで。

なんか、だいぶ話が逸れてきたようですが、要するに日本人は、何か問題が起きたときに、「自分たちにも責任がある」とは考えず、「指導者が悪い」で済ませてしまう悪い癖があるってことです。トップに責任を取らせて、辞任させれば問題が解決するかのような幻想にドップリつかりながら生きている。

だから、アテネで負けたら、「山本は無能」といい、北京で負けたら、「反町なんて消えてしまえ」といい、そして今回は責任を全て布さんに押し付けて、当座の満足を得る。しかし、首をすげ替えただけでは、何一つ問題は解決しないですよね。

これだけ育成年代で苦戦し続けるってことは、ごく単純に、「日本のサッカーは弱い」ってだけの話なんですね。そして、応援するサポーターも「日本サッカー界」の一員なわけです。ナショナルチームがアジアの壁を超えられないとしたら、それは我々サポーター、布さん批判をした各論者も含めた「日本サッカー界」のレベルがそこまでに至っていないということです。だから、問題を解決したいならば、どうすれば日本のサッカーが強くなるか、という観点で考えなければならない。

そこで「○○ジャパン」ですよ。この言い方って、そういう観点でものを考えるにあたって、ネガティブな影響力を持つ。「○○ジャパン」には、サポーターの当事者意識を著しく希薄化する作用があるように思います。「「○○ジャパン」が負けた。じゃ、「○○」の部分だけ変えちゃえば、それで問題は解決するんじゃね?」そういう日本人得意の、「首をすげ替えれば問題は解決する」という幻想を増長させ、当事者として痛みを共有しなければならないという覚悟から目を逸らさせる、そういうデメリットは確かにあるんじゃないかと思います。

というわけで、今回はよろしくない面についてのお話でした。とはいえ、「でも、ま、「○○ジャパン」で、良いんじゃね?」とも思ったりもしますので、次回は、その辺りのことをば。

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これを書いた頃は、まだ、自由にコメントが書き込めて、良質か否かはさておき、いろいろコメント欄が盛り上がっていました。あの頃にお世話になった方、その頃のスポナビブログ仲間の皆さん、お元気でいますか?