【御蔵出し】 ○○ジャパンの周辺をウロウロと…

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引っ越しかなんかの時に、それまで書き止めていたコラムめいたエントリーの下書きを保存したUSBメモリーを紛失したのですが、それが先日、発見されました。それを【御蔵出し】シリーズとして不定期連載していきたいと思います。そんなわけで本シリーズは、エントリーが書かれた当時の頃に記憶を戻してお読みくださいませ。

当シリーズ前回の続きですね。

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と言うわけで、「○○ジャパン」でも良いじゃない、D・A・T・E、恋したって良いんじゃない、ってな話です。

前にも述べましたが、ワタクシ、「アメトーーク」が大好物だったりします。あの番組で名を上げて、華麗なる復活を遂げたのが、元猿岩石の有吉さん。毒舌にあだ名が泉のように湧き出す、あの才能は、まさにスペシャルです。

ただ、コンビ時代は、完全に「猿岩石の冴えない方」でしたね。そして電波少年バブルが崩壊した後の惨状は、もはや周知のことでしょう。そんな有吉さんが、とにもかくにも、芸能界から完全消滅しなかったのは、周囲に理解者がいたからだと思われます。具体的には上島竜平さんですね。

そして苦労していた頃の恩に報いるべく、有吉さんは上島さんのことを、弄り倒しております。芸人さんの世界ですので、弄り倒すと言うのは、決して「恩を仇で返す」ではなく、まさに「恩に報いる」なわけですが、有吉さんの弄りの結果、世間の脚光を浴びることとなったのが、「竜平会」です。

さて、その竜平会がワイドショーか何かで取り上げられたとき、心理学者のナントカさん(テレビでよくお見かけするソフトな感じの方です)が仰っていて、「なるほどなあ」と思ったことがあります。なんでも、上島さんのようなタイプのリーダーは、外国(おそらく欧米諸国が想定されているかと思われます)には存在しないんだそうです。

つまり、諸外国において、「能力的に自分が一番である」という自信に満ち溢れたタイプがリーダーとして相応しいとされているらしい。対する我らが上島竜平は、「他人より優れている」ことによってではなく、「弄られキャラである」ことによって、リーダーの地位が与えられている。

自ら先頭を走って組織を適切な場所に導くことが、リーダーの絶対条件とする諸外国においては、上島さんみたいなタイプのリーダーは、ちょっと考えられないとのこと。そうなると、当然、「じゃあ何故、日本ではそういうリーダーが成り立つのか?」ってことが気になってしまいます。

ここからは、いつもと同じ、独断と偏見による仮説でございます。というか、どこかで聞いたことのある話を、個人的曲解に基づき、再構成しています。

思うに、日本人社会では一般的にトップに対して、「俺に付いて来い」的なリーダーシップを求めていないのではないか、と思うのです。ワタクシもシツコイですが、布さんや反町さんがナショナルチームを率いて失敗したとき、「すぐにサッカー界から身を退け」の大合唱が発生しました。

日本人って、「責任を取って辞任しろ」って言いたくて言いたくて仕方のない人種なんだと思うんですね。逆に言えば、リーダーが責任を取って辞任さえしてしまえば、丸く収まってしまう。そんなことで実際的な問題なんて、何一つ解決しないわけですが、どう考えても、日本人は、リーダーに「問題を解決させる」ことより、「責任を取らせる」ことを求める。

少しアングルを変えますが、少し前に犬飼さんがクーデターで失脚し、小倉さんが登用されるということがありました。典型例なブルドーザー型リーダーである犬飼さんではなく、対話を重んじる(らしい)小倉さんが選ばれた。

このことから言えるのは、日本型組織では「俺に付いて来い」って言う先導者よりも、「まぁまぁまぁ」を上手に使いこなす、まとめ役の方がトップとして歓迎されるということです。実務的に辣腕を振るうことは求められていない。

日常的業務として「まぁまぁまぁ」を適切に発動すること、そして、問題が起きたときには、何はともあれ責任をとって辞任すること、日本社会においてリーダーに求められる素養は、この二つだけではないかと思います。日本社会におけるトップは、実務に携わらないこと、極言すれば組織の「象徴」としてのみ機能することが求められているように思えてならないわけですね。

以上のように考えますと、「○○ジャパン」って表現は、日本的組織にとって、実に合理的なあり方なのではないかと思えてきます。「○○ジャパン」という表現をすれば、あたかも責任の全てが「○○」にあるように思える。

それは、潔く責任を取ることをリーダーに求める日本型組織のあり方を体現するのに、最も適したスタイルなのではないか、なんて思うのです。「○○ジャパン」って言い方をすることによって、「○○」は組織の「象徴」として円滑に機能するようになるわけです。

もちろん、「だから日本人社会はダメなんだ」って声もあるでしょうし、これまで書き散らしてきたエントリーにおけるワタクシの態度とも、或いは矛盾することもあるかと思いますが、個人的には、リーダーが「象徴」でしかない日本的あり方にも相応の合理性があるのではないかと思うんですね。

その合理性の正体を上手く説明できないので説得力を欠くかもしれませんが、兎にも角にも、日本人は卑弥呼の時代から2000年近く、そのやり方で、それなりにやってきたわけです。「歴史の必然が現在である」という立場に立ったとき、勿論、それが理想形だとは口が裂けても言いませんが、「○○ジャパン」と表現されるような組織、いかにも「リーダーだけが責任を被れば済みますよね」みたいな印象を与える組織って言うのは、日本人にとって、最も得意なスタイル、最も失敗する可能性の低い組織のあり方なのではないか、なんて思ったりします。

「最も成功しやすい」ではなく、「最も失敗する可能性の低い」というところがミソですが、一応、「○○ジャパン」も悪くないんじゃないってことを述べさせていただきました。

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これを書いた頃って、まだ有吉さんが毒舌ニックネーム付けキャラで売っていた頃なんですね。いまや、冠番組を何本も抱え、大物司会者の仲間入りも間近になっていますが。・・・つくづく、日々が流れるのは早い。あぁ。今年もお師匠様が全力疾走だとさ。