今更ながらオリンピック開催中の関塚さん批判に対して反批判を大人げなく試みてみたので、そのへんのことの周辺をウロウロと…(下)【サッカーオリンピック代表に対する評価の在り方】

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徳島では台風により試合が中止なのに、愛媛だと大丈夫なのか。日本列島の豊かな自然環境、多種多様な気候条件に思いを馳せざるをえない今日この頃、皆さんにおきましては如何お過ごしでしょうか?

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□ガンバにあって浦和になかったもの、とかなんとか言っちゃって浦和vsガンバ(09月22日)5/5

サッカーくじ競技強化助成金廃止に日本のスポーツ行政の歪みが全て凝縮している、とかなんとか言っちゃって。(1/2)

というわけで、関塚JAPAN肯定派のワタクシとしては、オリンピック期間中、あるいは前後の期間に見られた、いくつかの世論に対し、そのとき抱いた苦々しい思いを今になって発散してきました。

このシリーズ最後2回分は、「関塚JAPANに対し、どのような評価をするかは個人の自由だけど、少なくともワタクシとしては、賛同できなかった」という関塚さん評をランダムに取り上げていきたいと思います(一部、これまでのエントリー内容と重複あり)。←ここまで前回のコピペ。

の2回目。

■「権田は成長してない」という批判。

これは「日本のサッカーは進歩しているのだから、過去最高の成績なんて当然の義務だ」という発想と同じ欠落があると思います。その欠落とは、「相手も成長している」「周囲も強くなっている」という視点を根本的に忘れていることです。

日本が前回大会より3倍強くなっていたとしても、他国が5倍強くなっていたら、相対的に日本は弱くなっているわけですね。権田についても同じことが言えます。

予選より相手が強くなっている以上、「同じようなミス」というのは、「相手が強くなった分以上の成長はできなかった」ということでしかありません。「相手が強くなった分以上の成長はできなかった」と「成長していない」を等置してしまうのは、物事を極度に単純化した理解だと思います。

そもそも権田本人が成長しているかどうかなんて、オリンピックの数試合を見ただけで判断できるはずがないですから最低限Jリーグでの「平均的なパフォーマンス」を確認しておかないといけないでしょうし(FC東京サポが「権田には成長が感じられない」と批判するならば一応なりとも聞く耳を持ちます)、確かにミスはありましたが、「同じようなミスをすること」をダイレクトに「成長していない」にトレースするのは安直に過ぎるでしょう。「同じようなミス」は、あくまで「同じようなミス」であって、「同じミス」ではない。

仮に「同じミス」であったとしても、それは権田というGKのパフォーマンスのごくごく一部分に過ぎないわけで、コーチングであるとか、基本的なキャッチングのテクニックとか、その他、数限りなくあるGKとしての技術をトータルして評価しないとアンフェアってもんです。

「一対一の肉弾ディフェンスが相変わらず苦手だから、香川には全く成長がない」とか、「サイドで縦に長い距離を走る際のスピードが向上していないので本田は努力を怠っている」とか、そういう論難をしているのと、性質的には同じですよね。

■「オーバーエイジ枠で関塚さんの希望が完璧に実現しなかったのは協会にやる気と能力がなかったから」という批判。

この意見って、裏返せば、「協会の構成員にやる気と能力があれば、上手くいっていたはずだ」ってことですよね。

・・・いつから、「世の中」あるいは「オトナの行政」って、そんなに単純になったんですかね?とは

どうやっても、お金が絡んでくるトピックですから、「やる気」や「個々の能力」でどうにかなるものではないですよね。背景には、(誰がやっても)そうならざるをえない構造(必然)があるわけであって、なので、このての批判をしたいなら、「もし凄くやる気があって、能力も十分な人が事にあたったとしても上手くいかないとすれば、そこには、どのような理由があるのだろうか?」という部分に対して十全に想像力を働かせた上で、批判するなら批判するべきでしょう。

■オリンピック期間中の‘世論(?)’の特徴

というわけで、オリンピック期間中、あるいはその前後の時期に投げかけられた、関塚JAPANに対する批判について、いろいろとコメントして参りました。

それらの批判について、共通して言えるのは、「議論が安直」、これに尽きると思います。

より具体的に言えば、物事が理想通りに進まない理由を、関塚さんなり、協会なりの個人的資質に帰着させてしまっている。「関塚さんに能力が足りない」とか「協会にやる気がない」とか、そこで思考が停止してしまってるんですね。

「関塚さんがそういう選択を採らざるをえなかったのは何故か?」とか、「誰が監督をやっても、同じようにならざるをえないって部分があるのではないか?」という視点が足りない。

「たまたま監督に恵まれなかった」という偶発性で片付けてしまい、「そうならざるをえなかった必然性は何か?」という、背景にある構造を考えようとする姿勢が決定的に不足しているんですね。

ただ、これは、ある程度、仕方ないことだと思います。オリンピックやワールドカップというのは、‘国民的関心事’です。日常的に毎週末サッカーにかじりつくという習慣を持たない人でも「一億総評論家」の一人として、ブログというカジュアルな媒体を通じて‘正論’らしきものを述べる、それこそオリンピックなりワールドカップなりといった‘国民的関心事’の基本特性でしょうから、どうしても、そういう安直な意見が、あたかも‘多数派による正論’のように、大手を振ってまかり通ってしまうのかな、と。

そんなこんなで、延々とオリンピック期間中に関塚JAPANを批判していたブログさんを、ネチネチ毒づいてきました。〈他者に対して批判的なことを述べ過ぎると「荒れる」〉という特性がブログにはありますから、ワタクシとしても、そこはできるだけ忌避する傾向があります。にもかかわらず、なぜ、この時期に、批判的な言説を垂れてきたか。

それは、「いまや、ワタクシが批判の対象にしたブロガーさんは、ブログの世界から姿を消しているだろうから、このタイミングなら個人的な溜飲を下ろしたとしても、たぶん逆上されたりしないだろう」という見通しがあるからです。

表面的な事象に一喜一憂して、「その向こう側」を見ない意見というのは、喉元過ぎれば熱さがなくなるのですね。なので、そういうブロガーさんのブログというのは基本的に長続きしない。

逆に、長続きしているブログさんというのは、「その向こう側」に対する何らかの見識、その人なりの含蓄がありますから、ネタも豊富で、さらに一つの一つのネタに対して多角的な言及ができます。一つのネタを‘繰り返し転がしまわせる’。また引き出しも多いから、戦略的に小出しにしたりもできる。ゆえに長続きするわけですね。

批判というのは脊髄反射でもできますが、良いところというのは、観察力がないと見つけられない。長続きするサッカーブログは選手や監督を誉めます、批判することもあるでしょうけど。逆に、批判ばっかりしているブログは、脊髄反射するための刺激が存在する期間だけしか稼働しない。

だから、あるブログが、どういった基本特性を備えているか、というのは、そのブログが、どれくらい持続しており、コンスタントに更新されているかを確認すれば、おおよそのところは検討がつきます。

もちろん例外はありましょうが(例えば弊ブログ)、数年に渡り安定的に更新されている、或いは、そういう期間がかつてあったブログさんは、見解の相違はあれども、それなりに一つに意見として信頼して良いでしょうし、他方で、開始されて間もないブログさん、特定の期間だけ集中的に更新され、それ以外は開店休業状態のブログさんで、かつ批判的な内容が目立つもの(この‘かつ’という部分が重要)に関しては、慎重な姿勢で読み進める必要があろうかと思います。おしまい。