関塚JAPANとなでしこに対する批判に見られた共通傾向の周辺をウロウロと…【サッカーオリンピック代表に対する評価の在り方】

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乾が良いっすね。いまだに高校サッカーに「セクシー」の幻影を追いかけてしまう世代的には、大変うれしいところですが、皆さんにおきましては、如何お過ごしでしょうか?

ワタクシは別館4thDayMarketCentreをアップしております。

□なでしこ佐々木監督続投要請の背後には少しきな臭い事情がありそうだ(下)、とかなんとか言っちゃって。

ベストメンバー規定に重鎮の体調を思う、とかなんとか言っちゃって。

□浦和は序盤だけ良かった、とかなんとか言っちゃって浦和vsガンバ(09月22日)1/5

ロンドンでのオリンピック男子代表ほど、短期間で毀誉褒貶を味わったチームも珍しいですよね。

初戦のスペインに勝ったときは‘グラスゴーのナンチャラ’とか言って歴史的偉業を成し遂げたチームであるかの如くもてはやされ、最後に2連敗するや、手のひらを返したように、やれ「尻つぼみ」だの、やれ「所詮は限界があった」だの、これを感情論と言わずして、何を感情論と言うんだってくらいのアップダウンがありました。

日本人の場合、「感情的な一喜一憂は極力抑制する」ことで社会を維持してきましたから、どちらかといえば、珍しい現象だったと思います。

もちろん、それはオリンピックにおける男子代表の二側面であって、確かに存在した事実ですから、ある部分は誉め、ある部分は難ずるというのも、別に悪いことではないでしょう。

問題は、その二側面をそれぞれ正当に評価するのではなく、‘最後に連敗した’という直近のイメージだけで、オリンピックにおける関塚ジャパンを総括する風潮が、少なくともネット上には、より厳密に述べるならば、スポナビブログにおいて、かなり目立ったことです。

オリンピックでは6試合を戦ったにもかかわらず、最後の2試合だけで、関塚ジャパンの価値を決め、そこから逆算する形でグループリーグの躍動を過小評価する論評には違和感を禁じ得ません。

また、同じように違和感を覚えたのが「所詮ショートカウンターしか戦術がないところに関塚さんの限界があった」というようなご意見。

もちろん関塚さんにも限界はあるんですよ、人間ですから。ただ、そんなことを言い出したら「ボールを持った全ての機会で、自分と相手ゴールの間にいる全DFをドリブルで抜いてゴールを決められない時点で、所詮メッシには限界があって、全然ダメダメだよね」ってな言説も成立してしまいますよね。

ともあれ、関塚さんを仮に「平均以下」と評価する意見があるならば、「日本サッカーの歩んできた道のりの中に、関塚ジャパンを位置付ける」という発想が決定的に欠けている言わざるをえません。いつから「標準的な監督なら短期間で複数の戦術を定着させ、普通にメダルを取れるような強豪国に、日本はなったんだ?」と。

つい10年ちょっと前までは、韓国に対して手も足も出なかったサッカー後進国だったわけです、日本は。そして、関塚さんは、そんなサッカー後進国の時計の針を確実に先に進めたわけですよ。

「今回の代表選手の能力ならメダルも狙えた」という意見もありましたが、それは贔屓目を排除して他国の代表選手を客観的に分析した上で、結論付けてますか?と。

ここでは、「日本サッカー界が歩んできたこれまでの歴史」や「世界全体の相対値の中に現在の日本代表を客観的に位置付けようとする意思」が、決定的に欠落しているわけです。

同じようなことは、なでしこが銀メダルを獲得したときの表彰式で鮫島や丸山がピースしたことに対する批判にも言えます。

敗戦直後に見せた彼女たちの‘明るい’振る舞いに対しては、割合的には、ごく少数派ながら、ネガティブに評価する声もあったようです。おそらく、そういった意見を表面した方々には、「表彰式では、かくあるべし!」とか、「敗者たるもの、かくあるべし!」みたいな理念型をお持ちなんだと思います。

そして、同時に、きっと、そういう方々の多くは、中高生時分に、吐くまで夏練をしたりとか、引退試合で泣き崩れたりとか、それくらいまで「やりきった」部活経験をしていないのではないかと考えます。レベルの高低に関係なく、自分の青春の重要な1ページとして部活経験が刻まれている人なら、真剣勝負に敗れた直後に‘明るい’振る舞いをすることが、いかに難しいか察しがつくはずです。あの短い時間で、彼女たちにどれだけハードな葛藤が襲いかかったかについて、相応の想像力が働くと思うのですね。

「負けた直後にヘラヘラしてんじゃない!」

「厳粛な場では神妙に振る舞うべき!」

確かに一面の正論です。しかし、そこには、画面に映った彼女たちの笑顔の向こう側にある葛藤に対する想像力が決定的に欠落しているわけです。

「最後の2試合だけで関塚さんを評価する」「関塚さんでなければ、もっとやれたはずだ」「表彰式でピースをする丸山はふざけている」、これら三つの言説に共通するのは、「目の前の現象だけで、対象を評価する」という思考パターンです。全ての試合をトータルで判断するとか、歴史的背景を適切に踏まえるとか、行動の裏にある心の葛藤を思いやるとか、そういった「全体や背景をひっくるめて物事をトータルで捉えようとする想像力」(=見えない部分に対する想像力)というものが、全く切り落とされているのですね。

「ある人の背景に対する想像力」というのは、「思いやり」という言葉に置き換えられるでしょう。そして、そのような「思いやり」を決定的に欠いた「正論」が、オリンピック開催中、およびその前後の時期には随分と目立っていた印象があります。

ただし、そもそも「思いやり」を欠いた「正論」というのは、オリンピック云々に関係なく、ネット上では、しばしば見受けられます。より厳密にいえば、「思いやり」を欠いた「正論」など、実社会のリアルな人間関係の中では、ほとんど相手にされません。なぜならば、そこに生産性がないからです。そして、実社会で表現の機会を失った「正論」が、迷い込むようにネットの世界に流れてくる、そういう構造があるものと思われます。

アスリートの目線に立てば、そのような、行き先のない「正論」まで、自らの評価の一部として甘受しなければならない時代になったわけで、ネット以前時代のアスリートに比べて、よりメンタル的なタフネスを求められるようになったと言えるでしょう。