次期代表監督の選定が難航しているとか、順調だとか。実際のところ、どうなってんですかね?
岡田さんの最大の功績は、「勝負事ばっかりは本番の成績が出るまでは分からない。強化試合で惨敗が続いたくらいで、ヒステリックにやーやー言っちゃいけない」ってことを、我々に知らしめてくれたことでしょうか。思うに、代表監督のことをあーだこーだ評するのって、とても難しいですよね。それは代表監督に限らず、Jクラブの場合も同じなわけで。
そんなわけで、サッカーの監督をどのように評価すべきかってな話。
以前、ワタクシ、トルシエをさんざん酷評しました。とはいえ、トルシエ否定派のワタクシですが、次のようなトルシエ批判には同調しかねます。
「フラット3なんて採用している時点でダメ」
フラット3が当時において既に有効性を失った戦術だったかどうかは、ワタクシには判断できません。
しかし、それは「ワタクシには判断できない」とともに、「そんなこと、誰にもわからない」んだとも考えます。
「フラット3でなければ、もっと良い成績(内容)になったはずだ」
という想定もありうるかと思いますが、全く同じように
「フラット3でなければ、もっと悪い成績(内容)に終わったはずだ」
という想定も成り立ちますし、もっと言えば
「フラット3であろうとなかろうと、多分あんなもん」
なんて意見も成立するでしょう。
要は、フラット3の採用が日本代表が日韓大会で好成績を収めるにあたって、合理的な判断だったか否かなんてことは、「フラット3を採用する(当時の)日本代表」vs「フラット3を採用しない(当時の)日本代表」という実現不可能な実験をしないことには断言できない事柄だと思うんですね。
戦術的な評価は、とどのつまり、「その戦術が、各人の理想とする戦術に近いかどうか」でしかないんだと思います。
例えば、
「サイドにスピードのある選手を置けば、もっと上手くいく」
とか
「高さのあるCFを起用しないからダメなんだ」
とか
「自分なら、あの場面でAという選手ではなく、Bという選手をピッチに送り出した」
みたいな意見を根拠に、サッカーチームの監督を批判する言説もあるかと思います。しかし、それらはすべて各論者の「脳内シミュレーションでは上手くいく」というだけのことであって、それを現実に落としたときに想定通り機能するという保障は何一つないんだと思います。
当然、各監督も、批判的な言説を垂れる各論者と同様に、脳内シミュレーションをして、上手くいくんじゃないかと考えた上で、実際のチーム作りをしているはずですよね。そして、脳内シミュレーションと現実の狭間で必然的に発生するギャップに苦しんでいるんだと思います。
つまり、監督と論者の違いは、
「脳内シミュレーションと現実とのギャップを突きつけられた人」
と、
「そのギャップを突きつけられる立場にないから、自分の脳内シミュレーションの不備を痛感せずに済んでいる人」
の差なんだと考えます。
各論者は、自分の脳内シミュレーションを傷つけられていない分、自分の理想こそ正しいんじゃないかと確信を持てているわけです。しかし、それは積極的な根拠に支えられたものではなく、あくまで「否定されるという経験をしていない」という、それだけの根拠なんですね。
「俺はメッシに抜かれたことがないから、スペインのプロ選手は自分よりヘタ」
と言っているのと、本質的な相違はないんじゃないかと感じます。
ただし、だからと言って、「監督批判をするな」と言いたいわけではありません。
以前のエントリーで述べたように、「その辺のおっちゃんが、挨拶代わりにサッカーのウンチクを垂れる」状態になることこそ、日本のサッカーが強くなる絶対条件でしょう。
ただ、それが中島みゆきさんの名曲状態になっちゃいけないんだと思うんですね。
「ほにゃららなヤツらが、どーにかこーにか、ファイト!」
みたいな。
そうならないためには、どうすれば良いか?
それはもう、「たたかう君のこと」に対する想像力しかないんだろう、と。
これはサッカーの監督に限らず、何事においても、最も難しいのは「プランを立てること」ではなく、「プランを現実化すること」だと思うんですね。実際に実行してみると、予想外の現象が、わけのわからない方向からやってくるものです。
我々サポーターは、その最も困難な「プランを現実化すること」というタスクに拘束されない存在です。どう背伸びをしても、「たたかう君」の苦労を追体験することができない。だから、自分には体感できない、「たたかうきみ」の苦労に対して、精一杯の想像力を働かせて、最大限の敬意を払わないといけないと思うわけです。
繰り返しになりますが、「戦術が悪い」だの、「選手選考が悪い」だのといった批判は、その批判の正しさを実証できない以上、「自分が理想とする戦術(脳内シミュレーション)を、そのまま実行してくれない他人は無能である」との難癖でしかないと思います。
それは敬意を払った批判とは言えないのではないか、というのがワタクシの立場です。
例えば、代表チームが苦戦続きになったとしましょう。
その場合に、
「この監督がダメだから、こうなるんだ」
と批判をする前に
「この監督は、今こういうことで苦労しているんだろうな」
という想像力を働かせると言いますか、
「その立場にならないと解らない苦労がいろいろとあるんだろうけど、それでも、もっと…して欲しいな」
というスタンスというか、とにかく、そういった〈思いやり〉を含めさせられるかどうかに、その批判が生産的になるかどうか画す一線があるのかなぁ、なんて思う次第であります。