先週、先々週と我ながら随分と無責任なことを書いたな、と反省したりしています。
要約すれば、日本サッカーは、ここ数年で大きく進歩したわけでもないし、大きな進歩を望める状況でもないだろう、というエントリーをアップしたのですが、そもそも「サッカーの進歩」って何なのか、サッカーを語るにあたって「進歩」というファクターは相応しいのか、という部分を改めて考えてみますと、「日本のサッカーは進歩した」とか「してない」とか、そういう物言いそのものが、不適切なんじゃないかな、なんて思えてきたんですね。
例えば戦術の面では、現在、世界的に42ー31とか433とかが、比較的多く採用されていますが、これはサッカーの「進化形」といって良いものか。
子供の頃、ファミコンで『キャプテン翼』のゲームをやっていたときは、433が基本形でした。
そして、その433を攻略するため442が流行し、さらには3バックが「発見」されました。やがて3バックの弱点が明白になると、再び4バックに戻り、今や433です。陣型だけ見れば、一周回ってもとに戻った、先祖帰りしたわけです。
無論
「形が同じだけで中身は全然違う」
という反論も予想されるのですが、仮に中身が違うとして、それを「進歩」と捉えることが本当に適切なのか。
それを「変化」とするのではなく、「進歩」と断定するための客観的基準はどこにあるのか。
大学生の頃、頭の良い友人が「複雑系」なる概念を教えてくれたことがあります。
それは、
「生物は常に進化していて、人類はその究極形、すなわち霊長である」
というキリスト教的な「進歩」観に対する、
「世の中には「進歩」なんてない。あるのは「変化」だ」
という批判的言説らしいのですが、ワタクシが理解できた範囲で簡単に述べますと、
「ある秩序ができると、やがて柔軟性を失い、その秩序に含まれない新たな異分子が発生したとき、それに対応できなくなる。そしてその異分子により秩序は崩壊しアナーキーとなる。しかしそのアナーキーにも、やがて整理が与えられ新たな秩序が形成される。そしてその新秩序も硬直化して崩壊して…が無限ループで繰り返される。」
という考え方のようです。これはサッカーの戦術にもピタリと当てはまるように感じます。
433という秩序に対し、その秩序を破壊しようと442という異分子が発生し、やがて442を基本形とする秩序が整理されれば、それを破壊すべく352という異分子が発生する。
そこにあるのは「現状否定」なわけですが、「現状否定」を短絡的に「進歩」と同一視して良いものか。
「新たな戦術=進化した戦術」が成り立たないとすれば、それを「変化」ではなく「進歩」とする基準はどこに求めるべきか、、、ワタクシには、アイデアがありません。
次に個人技術の「進歩」について考えてみましょう。
例えば陸上の男子100メートルなんかでは、確実に進歩していますよね。カール・ルイスの9秒93が、今や9秒69なわけですから、これは、一応、「進歩」と言って良いと思います。
では、数字が良くなれば全て「進歩」と言えるのか。
野球を例に取りましょう。野球も比較的数値化しやすい競技かと思いますので。
仮に今年、イチロー選手が4割打ったとして、それだけで即ちイチローの「進歩」と言い切れるのか。ただ数値が良くなっただけならば、「相手投手が軒並み劣化しただけ」という可能性も排除できないわけです。
少なくとも打者と投手の成績は、両者の相対的な位置関係によって与えられるものですから、一方の成績が向上したからといって、それをそのまま「進歩」に結びつけることはできないわけですね。
そして、サッカー。サッカーの場合は相手との相対性に規定される上に、更に数値化が極めて難しい競技なわけです。
つまり、何をもって「技術の進歩」とみなすのか、それは本当に「進歩」なのか、相手が劣化しただけではないのか、などなど、「進歩」なるものを語るには非常に多くのハードルを越えなければならない。
最近はテレビ中継などで、「本日のランニング距離」みたいなのが数値としてスーパーに載りますが、長い距離を走れば、「進歩」あるいは「向上」したことになるのか。
それは、無限に繰り返す戦術ループにおいて、たまたま現在はそういう能力がもてはやされているだけなのかもしれない。
長々と何を述べてきたかと申しますと、サッカーを語る際には、そうそう簡単に「進歩」やら「進化」やら「劣化」やらと言った表現を使っちゃいけないんじゃないか、ということです。
先々週のエントリーで、「日本のサッカーは進化しているか」という自ら立てた問いに、「昔と今のJ2六位のチームにおいては、自分たちのサッカーを表現しようという意識に格段の差がある」と答えたのは、その問いがムチャクチャであることに薄々気づいていたからなんですね。「意識の向上」ならば、ここまで述べてきたいろんな難点を、さしあたりクリアできるだろうというわけです。
では、我々は日本のサッカーの現在値を云々することは不可能なのか、と言われましたならば、「そうかもしれない」と思います。
ただ、個人的な見解としては、「成熟度」という物差しは有効なのかもしれないな、とも思います。
それが進化か退化か単なる変化かは分からないですが、とにかくある一定の方向性に対する成熟度なるものは存在するんじゃないかな、なんて感想を持っています。
そんなわけで、来週あたり、その「成熟度」あるいは「日本のサッカー文化の成熟」という側面から、もう少しイロイロと考えてみたいと思っています。