先週末は大宮に行ってアルディージャvsモンテディオを見て参りました。というわけでマッチレポについては
別館4thDayMarketCentreにアップしましたので、よろしくです!
やったぜ金髪大宮vs山形の周辺をモンテディオ目線でウロウロと…
やっぱりラファエルじゃね?大宮vs山形の周辺をアルディージャ目線でウロウロと…
さて本題。
本シリーズの前回と前々回で犬飼さんに絡めて秋春制or春秋制の話をしてきました。当然、
「じゃあ、お前は、どっち派なんだ?」
って話になりますよね。結論から言えば春秋制維持派です。
理由を述べるならば「だって日本人だもん」。それじゃ誰も納得しないと思いますので、その辺のことをば。
先日、世代のまるで異なる4人でドライブ的なものに出掛けました。まぁ、そんな楽しげなことでもないんですが、それなりの時間、一緒に車に乗っていたって話です。
で、沈黙を避けるため、FMレイディオを点けていたところ、「きぃみぃとぉいたなぁつわぁ、とおいゆめーのなかぁあ」って曲が流れてきました。4人のなかの最年少はワタクシより一回り下。ワタクシにとってはJITTERIN'JINNでも、彼にとってはwhiteberryらしい。
ただ、歌い手こそ違え、この曲の持つ世界観には、同じような感慨を持つらしい。夏祭りって、大人になっても、そして実際には夏祭りに何ら青春の1ページを刻んでなくても、誰にとっても甘酸っぱい響きのある言葉ですよね。
同じような世界観を持つ曲としてZONEのナンチャラって歌がありますよね。「秘密の基地」って言葉も力がありますが、そこに「8月」という言葉が絡んでくると、ノスタルジック感がハンパじゃなくなる。
昔、実家の近くに某紡績工場がありました。学校からの帰り道、その工場の塀沿いにトボトボ歩いていると、染料特有の異臭が漂ってきたものです。年に一回、今で言うアウトレットセールがあって、工場が開放されて、内部をキョロキョロ見て回った記憶があります。「工場のある風景」がワタクシにとっての原風景なんですね。
そして、この原風景が人間に与える影響というのは、なかなかバカにできない。数年前、友人たちと遊びに千葉へ行った帰り道、アクアラインで戻ってきました。
アクアラインって、川崎に出るとき、工業地帯のド真ん中を通るんですね。キムタクが出ていたドラマ「若者のすべて」の光景そのまんま。
そんな川崎の工業地帯を通り抜けていたとき、突然、猛烈なノスタルジーに襲われました。なんだか、もの凄く懐かしくて、幼き頃の温かい感触に全身が包み込まれたんですね。
以上のような理由で春秋制を支持したいと思います。なんのこっちゃって話なのは分かってますよ。
春秋制を支持する理由の一つは桜にあります。
最近は、なのか、昔からなのか、ときどき3月中に咲いてしまって別れの情景の小道具になってしまう桜ですが、でも桜って4月ですよね、イメージ的には。
そして、4月と言えば、始まりの季節です。日本人にとって、始まりの季節は桜とともにやってくるのです。新入社員は、花見の席取りをやって、はじめて組織の一員になれるのですよ。
ならば春秋制だろう、と。
季節に関して、もう一つ春秋制支持の理由を。ここで初めて、本エントリー序盤の与太話が生きてくるわけです。
いや、ですね、幼心に「夏の夜」とか「縁日」とか「夏祭り」とかって、特別な経験として残っていませんか?
いま思えば異様なまでに心がワクワクしていたような。そのワクワクの正体を探してみると、大きく2つの要素があると思うんですね。一つは「夏休み」が持つ特殊性、もう一つは「夜」が持つ特殊性ですね。
まずは「夏休み」の特殊性から。夏休みって、なんであんなに楽しかったんですかね。
実際には、それほど日々冒険的なことが起きていたわけではないのですが、とにかく一学期最後の日って、一年で最良の日じゃなかったですか?
心の中に「ワクワク」以外の要素が入り込む余地は1ミリたりともなかった。これは、同じ長期休暇でも、春休みや冬休みとは全く異質なものです。「ボクの夏休み」はあっても、「ボクの冬休み」とか「ボクの春休み」なんてゲームは存在しません。
やはり40日という期間が大きいのでしょうが、「海」とか「カブトムシ」とか、子どもの大好物が盛りだくさんな季節という特性もあるかもしれません。
とにかく、「夏休み」は、日本の子どもにとって、ディズニーランド以上のファンタジーなわけです。
次に「夜」について。
モノの本によると、むかしむかし我々日本人は、昼の世界を「人間たちの世界」、夜の世界を「妖怪みたいなのが跳梁跋扈する異界、人智の及ばない聖なる他界」と認識していたそうです。
子どもの頃、黄昏時になると何故だか胸騒ぎがしたのは、普段とは異なる怖い世界に引き込まれる不安が何処かにあるからとのこと。要するに子どもにとって「夜」とは、「普段は出歩くことが許されない非日常空間」なわけですね。
それは畏怖の世界であると同時に、そこを覗き見することは子どもにとって特別な経験として残ります。
なんかイロイロややこしいことを書き連ねてきましたが、つまりですね、子どもたちが「夏休みのナイトマッチ」を観戦することは非日常的なスペシャルな出来事であって、それが子どもたちの原風景になるだろうと考えるわけですよ。
そして、「夏休みのナイトマッチ」が幼少期の幸せな記憶としてインプットされた人は、大人になったとき、再びスタジアムに戻ってくるんじゃないか、なんなら親となって子どもを連れて戻ってくるんじゃないか、なんて思うんです。
サッカーを日本人社会に浸透させるためには、「幼少期の原風景」となりやすい「夏休みのナイトマッチ」をなくしてはいけない、そういう考えから、ワタクシは断固として春秋制を支持したいわけです。
なんだか話があっちに行ったり、こっちに行ったり、ごっちゃごちゃになりましたが、レジャーだったら夏でしょ、ってな内容でした。