「世紀末伝説ダービー」「ノバコダービー」「岡田ジャパンダービー」2014シーズンを振り返る・日本各地のダービー

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■世紀末伝説ダービー[東京ヴェルディvsカターレ富山(9月20日)]

東京ヴェルディ」と「カターレ富山」、ダービー的要素を探ってみると、「中島翔哉」というキーワードが出てきます。ヴェルディの育成組織で育てられ、ヴェルディの育成組織出身者らしいメンタルの持ち主に育った若者が、ヴェルディのトップチームなりカターレなりの成績を押し上げることができたのかどうかは問うまい。口の悪い方々は技術面でのプラスを上回るマイナス面を取り沙汰します。ともあれ、この時点の両チームは「20位vs22位」という対決でございました。

 

 

この日、両者が対決した舞台は味の素スタジアム。「横浜国際や埼玉スタジアムへの対抗上」という、“首都の沽券”が唯一の建造動機であったのではないかと思われる、「首都が誇る巨大スタジアム」でございます。毎回30000人弱程度を動員するFC東京でも、2階席は閑散としているわけですが、翻って東京ヴェルディ。このクラブが現状として持ち合わせている動員力を踏まえると、スタジアム収容率は、どの程度になるか。知っている人は知ってますね。

 

 

一方、対するカターレ富山。ここもホームスタジアムはなかなか立派なんですよね。陸上競技場ですけど。そのホームスタジアムもやっぱりゴール裏からして閑散としているなんて巷聞を耳にしたりしなかったり。アウェイでの動員力は推して知るべし。そんなヴェルディカターレが、如上の巨大スタジアムでマッチアップするのですよ。それはそれは「199×年、世界は核の炎に包まれた」みたいな世紀末な光景が広がっていたとさ。

 

 

 

■ノバコダービー[大宮アルディージャvs清水エスパルス(9月27日)]

大宮といえば、J1に昇格して以来、一貫して、「ギリギリでの残留」を果たしてきたチーム。その、残留ラインを「おっとっとっとっと」と綱渡りする様相は、まさに、日本が世界に誇る職人=鳶職人。法被が似合ってしかたありません。そんなエレベーターを途中下車する習慣を、いったん矯正したのがズデンコ・ベルデニック。厳格な指導方針によって、チームを優勝争いに導くとともに、同時に崩壊させていって、職を解かれた個性派指導者。

 

 

そんなベルデニックが大宮に残した最大の功績は、案外、東欧2トップを日本に誘い入れたことかも。オシムもそうでしたけど、東欧人監督が日本に連れてくる東欧人選手にハズレは少ない。優良助っ人ばかりです。ちなみに東欧2トップの一角であるズラタンは、2014シーズンにおいても大宮のエースだったのですが、一般的に“ズラタン”って響きからは、テコンドーが得意で、バルサが嫌いで、パリ界隈に居を構えているであろう、あの人のことを思い浮かべますよね。

 

 

イブラさんの出現以来、「○○ビッチ」ってつく東欧の選手には「ビッチ」の前に「ヒモ」を付ければ、もっと凄くなるんじゃないかと思えてならない。例えば、東欧2トップの、もう1人、ノバコビッチも、もし名前が「ノバコヒモビッチ」だったら、どれだけゴールを決めるのか、末恐ろしい。・・・えと、つまりこの試合で清水の1トップとして出場していたノバコビッチは、元々大宮の選手なので、この試合は「ノバコダービー」だったという話です。

 

   

 

岡田ジャパンダービー[町田vs鳥取(10月5日)]

 

元々は浦和のバンディエラだったはずの野人岡野。その後、気がつけば、海なし県の埼玉から、海岸沿いの砂丘で有名な鳥取県に活躍の場を移し、すっかりガイナーレバンディエラになりましたよね。ガイナーレの活躍拠点の一つであるサッカー専用競技場には「チュウブYAJINスタジアム」なんて名前がついていたりして。まぁ、浦和には福田とか、直近では山田暢久とかもいて、なかなか「バンディエラ枠」に空きがなかったでしょうから、賢明な選択。

 

 

そんな岡野について、鳥取の社長さんだかが『エルゴラッソ』か何かのインタビュー記事で次のようなことを言っていた。すなわち「真面目で責任感も強く、周囲に遠慮なく厳しいことのいえる服部年久は指導者向き。逆に一見ちゃらんぽらんに見えるけれども、周囲に配慮できて、バカ騒ぎで場を盛り上げられる岡野は営業向き」と。実際、引退してからの岡野、大活躍ですよね。漁師プロジェクトを成功させてフェルナンジーニョの獲得を実現させたり。

 

 

そんな野人岡野さん。正直、受験勉強的な意味における偏差値は、それほど高くない(はず)。だから、ジョホールバル前後の岡田ジャパンにおいて、岡田さんの訓示の意味が理解できず、周囲の選手に翻訳をお願いしていたとか。そして、その「周囲の選手」というのが、誰あろう、相馬直樹。相馬さんは早稲田出身のインテリですからね。つまり、岡野と相馬はジョホールバル前後の時期において、日本代表のチームメートだったわけで、この1戦は「第一次岡田ジャパンダービー」といえるのです。