さて、前エントリーでは、「なぜ2014年という時期に差別意識が尖鋭化したのか」という点をワタクシなりに考えました。しかし、ここ10年くらいで社会が、(かつてに比べて)右傾化しつつあること(それが良いことか悪いことかは個人の価値観ですので触れません)は理解できても、「なぜ、それが浦和レッズというJリーグチームのサポーターにおいて表出したか」という点に関しては別の視点が必要になろうかと思います。
結論を先に述べれば、「なぜ浦和レッズなのか」という部分はわかりません。たまたま、そういう考え方の人々がゴール裏のイニシアチブを握ったに過ぎないかもしれませんし、クラブとサポーターが築いてきた文化や体質に何らかの必然的瑕瑾が存在したのか、外野のワタクシには判断しかねます。ただし、「(プロ野球やその他スポーツ・芸能などの興行ではなく)なぜJリーグなのか」という部分については思うところがあります。
というのも、そもそものJリーグの理念である「地域密着」に、差別意識を助長させる要素が含まれているように感じるのですね。もちろん「地域密着」という理念そのものが悪い言っているわけでは決してありません。ただし、あらゆるものには、光があれば影もあるわけで。
つまり、「地域密着」というのは、基本的には「そこの土地に何らかの縁を持つ人々に支えてもらおう」という理念ですよね。そうすると必然的に、「郷土愛」というものが刺激される。「そこの土地にゆかりのある‘われわれ’」というまとまりを意識するようになる。そこまでは別に悪いことではない。問題は、‘われわれ’を意識することによって‘われわれでないもの’も意識されてしまうということです。これを少し角度をずらして極限にまで押し進めると、「自民族(‘われわれ’)と他民族(‘われわれでないもの’)」の差別化となってしまうわけですね(だからこそ、そうならないような分別が求められる)。
で、Jリーグというのは、そういう「地域密着」をはじめとして、サポーターの文化も含めて、基本的にはヨーロッパを手本としてきた。サッカーというスポーツがヨーロッパを頂点とするヒエラルキーで成り立ってますから、それは至極あたりまえ。ただし、ここで自覚しておかなければならないのは、ヨーロッパというのは民族差別という意味でも本場であるということです。
ヨーロッパって、男女同権とか差別撲滅への意識が非常に高いですよね。でも、これって、それだけ差別ってものが根深く社会に浸透してしまっていることの裏返しでもあるわけで。歩き携帯をする人がいなければ、朝のホームで親の敵のように「歩き携帯は非常に危険です」って構内アナウンスを連呼されることはないわけですよ。差別があるから、差別撲滅運動も存在するということです。
で、それはキリスト教の、「信じるもの」と「信じないもの」あるいは「救われるもの」と「そうでないもの」という、一神教的な二元論が根底にある(と個人的には考えている)。生物の変化を「進化」と捉え、自らを「霊長類」なんて呼び習わす発想。あるいはマルクス主義的な発展段階論のような思考習慣。「異教徒を教化することは不幸な人々を幸福にしてあげることである」という独りよがりな植民地主義など、数え上げればキリがない。ゆえに、ヨーロッパ的なものを真似れば、どうしても差別的な意識が醸成されてしまうのではないかと思うのですよ。そもそもワールドカップやらオリンピックやらの国別対抗戦が国民国家的ナショナリズムのそのものですし、チャンピオンズリーグも、事実上、国別対抗戦的要素が濃厚でしょう。
何が言いたいかと申しますと、Jリーグの理念であるとか、基本スタンスそのものに差別意識を生み出す要素が既に含まれているということです。これをJリーグ当局の側から捉えて例えますと、「地域密着を強調しながら差別の撲滅を図る」ということは、「石油の消費により豊かさを追求しながら、環境汚染や温暖化と戦う」のと同じ現象なわけですね。石油を燃やせば嫌でも環境は破壊される。じゃあ、石油のない時代の生活に戻るかというと、それは現実的に不可能である。だから、そこのギリギリのバランスを上手く舵取りしていくしかない。同じように、Jリーグが、地域密着でやっていく以上、‘われわれ’と‘われわれでないもの’という二項対立的発想(差別的意識の源泉)は必ず発生する。しかし、地域密着を捨てるのは現実的に不可能。もう、そこのギリギリのバランスを上手く綱渡りしていくしかないのですね。
今後も、‘われわれ’と‘われわれでないもの’を区別する思考がJリーグのゴール裏から完全消滅することはないと思います。そこの舵取りをJリーグ当局が誤らないように、注視していく努力がサポーター・ファンには求められるのではないでしょうか。