「無観客試合と直接的関与者の処分だけで解決するのか?」の周辺をウロウロと…/2

                                  にほんブログ村 サッカーブログへ
にほんブログ村

この件については、以前のエントリーで触れているようで、実質的に何も触れてこなかったので、ここらでアレコレ考えてみました。

ことの発端は、浦和サポーターのダンマク掲示。要するに「日本人以外、浦和ゴール裏に入ってくるな」とか、「(国籍云々に関わりなく)日本人以外のアジア人(と我々が認識する)選手は出ていけ」みたいなメッセージが含まれると理解されうる内容が差別的だとして、Jリーグ史上初の無観客試合が実施されたわけですね。

まあ、ことの重大性であるとか、罪深さとか、処罰の程度が適正かとか、そういうのは、今さらですし、触れません。個人的に気になるのは、「なぜ、そういう人種差別(を疑われる)の問題が、2014年というタイミングで顕然化したのか?」とか、「なぜ、他のスポーツではなく、サッカーにおいて、その問題が尖鋭化したのか?」といったところ。

なまじっかの知識なので不正確やら認識不足やらのツッコミどころも満載になりますが、蛮勇を顧みずワタクシなりにまとめますと、日本の歴史上、他民族への差別意識って、比較的新しいものだと思うのですね(「民族」って概念がそもそも近代的な所産ですけど、そこはさておき)。

もちろん律令国家以来、貴族社会には「中国とは対等、朝鮮は下位」という、相互共有のない自意識がありましたし、近世後期の国学の高まりによって、ある種の「神国意識」みたいなものが相応の広まりを見せたことは事実なんでしょうけど、おそらく、庶民層(浦和ゴール裏の主力は、きっと「庶民層」に含まれる人々だろうと勝手に判断しました)が、そのような認識に凝り固まるようになっていたのは、大日本帝国がヤンチャだった時代に限られるのではないかと思います。

要するに、ヨーロッパ諸国のように、常に「差別意識」と「差別を抑制する意識」の緊張感の中で、生活文化が形成され、営まれてきたわけではないというか、比較の上では、「島国根性」のように自民族への強烈な意識の反面、そこまで、「我々じゃないもの」を積極的に排除したがる文化ではなかったんだと思うのです。日本の場合。

それが、あくまでワタクシの生活実感ですけど、ここ10年ちょっとの間で、ホント、唐突に、「ドコドコの国が嫌い〜!」みたいな言説が目立つようになってきた。もちろん、それ以前から、中曽根さんとか、そういう動向はあったのですけど、政治的な主義主張とは無関係なところで、そういう言説が顕著になってきている(これを「趣味化したナショナリズム」と称する場合があるらしい)。

で、個人的見解なのですが(或いはとっくに言論界で論じ尽くされたことの重複かもしれませんけど)、どうも、この動きと、いわゆる「ゆとり教育」とに連関があるように思えてならない。

と言いますのも、「ゆとり教育」って、つまり「(過度な)個性重視教育」だったわけで、しかも、「個性とは、それを社会が必要とする限りにおいて尊重される」という当たり前の社会的真理を無視して、「個性とは、周囲が勝手に絶対的に尊重してくれるもの」みたいな、ムチャクチャな意識を植え付けてしまった。つまり、「ゆとり世代」の若者は、旧世代と比較して「放っておいても、周囲は自分のことをチヤホヤしてくれるのが当然」という常識を持つ傾向が強まってしまった。旧世代は「相手に喜ばれることをすれば好かれるし、嫌がられることをすれば嫌われる」と考えるのに対し、「ゆとり世代」(の一部)は、「何もしないでも好かれて当たり前、嫌われるなんてことはあっちゃいけないことであり、自分を嫌うとしたら、そういう発想を持つ相手に問題がある」と考えるのではないか、と。

ゆえに「○○」(←日本に反する、みたいな二文字)ってだけで、非難の対象となる。「なぜ自分を嫌うのか」とか「嫌われるということは自分にも何らかの問題があるのではないか」みたいな可能性に配慮せず、一足飛びで、「自分を嫌うなんて、なんて極悪非道だ」みたいに発想してしまう。

ゆとり教育」以前においては、例えば、

「昭和初頭の戦争には大義名分があった」→「ゆえに非難される筋合いはない」

という論理が、一定の広がりを持って共有されていた。それが、「ゆとり教育」以後になると

「(自分(たち)は絶対的に)非難される筋合いはない」→「ゆえに昭和初頭の戦争には大義名分があったはずだ」

という論理に、順番が逆転しているんじゃないかと思うのです。

今から20年前くらいまでは、そこかしこに「戦争を知っている世代」がいて、社会全体としては、「○○」という意識がアジア諸国(の一部)に存在することを、ある意味で甘受していた。しかし、その世代が現世からの卒業を果たしていくとともに、そのような甘受は薄まりつつあり、そこにきて、「アナタは絶対的にチヤホヤされるために生まれてきたのですよ」という「個性重視教育」が施された。2014年という時代に「○○」的な国々に対する差別意識が表面したのには、こういう背景があるのではないかと考えます。

ただし、浦和ゴール裏でやらかしたの面々たちは、必ずしも「ゆとり世代」ではないでしょうから、もう少し別のアプローチも必要かと思います。続く。