サポーターのあり方2ステージ制復活の周辺をウロウロと…/7

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※「構造的欠陥により白紙撤回か!?」みたいなことになってしまっていますが、2ステージ制を模索せざるをえなかった状況(Jリーグを取り巻く環境)や、導入によって期待される効果(現状のJリーグに必要とされているもの)について、本質的な部分が解決されたわけではないと思いますので、何事もなかったように継続いたします。。。

※なんてことを言っているうちに、「ポストシーズン案修正で2ステージ制導入へ」なんてことになりましたが、最終回ですし、これまたスルーして終わらせます。

□協会の民主化

2015シーズンからの2シーズン制導入が正式決定された日、大東チェアマンは別件の用事で会見に姿を現しませんでした。それに対して、マスコミも含めて避難囂々。個人的には、「自分(たち)が気に入らない決定したヤツらには、説明させ、謝罪させないと気が済まない」という発想に付いていけないのですが、それ以前に、「先約をキャンセルしてでも出てこい!」ってのは、大人の意見としてどんなものかな、と。先約が雲隠れするためのカモフラージュだったらともかくですけど。

それに、この一件だけて、大東さんを「独裁者」扱いするのも、なんだかなぁ、って感じ。あくまで個人的な感覚の話ですけど、川淵犬飼体制の時代に比べて、ずいぶんと民主的な組織になったような印象を持ってます。ベストメンバー規定や我那覇問題を持ち出すまでもなく、川淵体制末期は、ホントひどかった。そもそも役員の選任方法が「これでは文科省に叱られる!」ってレベルだったわけですから。決して民主的とは思えない日本の官僚組織にすら「民主的でない!」と叱られるって、どんだけ非民主的なんだと。

それに比べて、正式決定する以前の段階で、ちゃんと情報が外に出て、サポーターが反対表面する時間的猶予があったのだから、現体制は、川淵体制時代に比べて、少なくとも相対的には民主的になった。川淵体制だったら、正式決定するまで、一切の情報が出てこなかったんじゃないかと。あくまで比較の上ですけど、‘まだマシ’。

□サポーターの民主化

今回の騒動で感じたのは、むしろサポーターの方が民主主義化できていないのではないか、ということ。尤も、これはJリーグサポーターに限った話ではなくて、日本人有権者全員に言えることですけど、日本人って、政治家が不祥事を起こしたり、庶民にとって好ましくない決定をしたとき、あるいは景気を薔薇色にできなかったとき、平気で「政治が悪い」って言いますよね。そして、自らを被害者として位置付ける。

確かに水戸黄門の時代、身分制社会の時代であるならば、政治が悪いのは政治家の責任であって、一般衆庶は被害者ということになりますが、少なくとも日本は戦後において民主主義を取り入れたわけですよ、それが望んだものであったか、力ずくの押し付けであったかはともあれ。

で、民主主義の基本的な理念というのは、「政治家は放っておくと何をしだすか分からないから、一般市民が政治の担い手にならなければならない」というもの。選挙という手段を執っている以上、〈政治家のレベル=市民のレベル〉であり、〈政治家のミス=それを選んだ有権者のミス〉なわけですね。政治家というのは社会のレベルを映す鏡でしかない。そして、そのような社会は市民1人1人の責任によって構築される。

サッカー協会の場合、我々サポーターが直接選挙によって人を選んでいるわけではないですけど、突き詰めれば、Jリーグの事務局は、日本の国内サッカーリーグの成熟度を映す鏡ですし、Jリーグに金がないということは、日本の国内サッカーリーグ文化が十分に成熟していないということにほかなりません。そして、そのような国内サッカーリーグ文化を作っていくのは、我々サポーター1人1人の権利であり、義務でもあるから、そこに成熟度が足りないということは、我々サポーター1人1人の責任なわけですよ。

被害者ぶってる場合ではなく、我々サポーター1人1人が自らを顧みて反省しないといけない。にもかかわらず、少なくないサポーターが、脳天気に事務局の批判だけして正義の味方面をしていたりする。ここに、日本サッカー界(というか日本の民主主義)の最大の問題点があると、個人的には思うのですね。これが、今回の2シーズン制反対運動に、どうもワタクシが肩入れできない最大の理由です。

Jリーグの世間的価値

7回に渡って、なんだかんだと勝手なことを述べてきましたが、今回の騒動で明確になってのは、「Jリーグには、チャンピオンシップでもやらない限り地上波がつかない、その程度の世間的価値しかない」ということです。で、そのことに対して、「事務局の失策だから、責任をとれ!」なんて無責任な批判をするのは簡単ですし、気持ちのよいことではありますが、そういう御都合主義をワタクシは好みません。

Jリーグの広告価値というのは、事務方と現場と我々サポーターが三位一体となって作り上げていくものです。厳しい言い方をすれば、〈我々Jリーサポーターが作り上げてきたJリーグ文化〉というのは、〈‘スクランブル交差点でのハイタッチする若者’が作ってきた日本代表文化〉の足下にも及ばない程度の広告価値しか生み出せていない、ということです。

くどいようですが、このような現実を事務局という特定他者の責任として自らは安全地帯に逃げ込むのか、それとも、サポーターにもその責任の一端があるとして自らも含めて省みるのか、そこが問われていると思います。言い方を変えるならば、サポーターとは、あくまでJリーグの事務方と選手(現場)が提供してくれるサービスを享受するだけの消費者であって、「お客様は神様」という居心地のよさに安住していて構わない存在だとするのか、サポーターも国内サッカーリーグ文化形成の担い手の一端であり生産者であると考えて、自分にできることを模索するのか、そこが問われているのではないでしょうか。

2ステージ制というのは、どう考えてもスポーツ的には不公平な制度です。でも不公平な制度にしたほうが金銭的な利益が得やすいという現実。甘えを排除し、「日本は資本主義国家だ」という事実を受け入れたとき、今回の大会方式変更は、Jリーグ文化の社会に対する敗北です。やはり、我々サポーターは「どうすれば、スポーツ的な正論が資本主義的正義(=儲かる)と一致するのか」を1人1人が主体的に考えていくことが大切なんじゃないか、これが本シリーズの結論です。