道上に圧倒されつつ、高校スポーツに関する例のトピックに思いを馳せる【全日本高校女子サッカー選手権大会準決勝】の周辺をウロウロと…★テレビ観戦記★

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常磐木学園 2 vs 0 日ノ本学園[高校女子サッカー 01月16日]

一進一退の良いゲームでしたが、後半10分少し前にPKが与えられました。ゴール前にフワッとルーズになったボールを常磐木のFW白木と日ノ本GK木付が競り合って、触った順番のアヤみたいなことで、それがPKになりました。で、それを常磐木は大黒柱の道上が決める、と。

その後も優勝候補同士が、‘事実上の決勝戦’との前評判に違わず、非常に引き締まった素晴らしい展開が続きます。その中で、次のゴールが生まれたのは後半も35分を過ぎてから。常磐木学園の伊藤選手がPA内でアジリティを発揮して、決定的な得点を挙げました。

この試合、両エースの出来が、そのまま展開を左右しました。前半はどちらかというと日ノ本がイニシアティブを握っていましたが、その起点となったのは10番の川原選手。ワントップでしたが、関塚JAPANにおける大津とか永井みたいなプレースタイルで、巧みな足技を畳み掛けてリズムを作ります。

対する常磐木のエースは、皆様ご存知の道上。去年のヤングなでしこでも飛び級で出番を得た選手ですから、ちょっとした有名人ですよね。ただ道上選手、存在感はハンパなかったですが、前半は、あまり良い形でボールを受けることが出来ませんでした。そして、その両エースのボールに絡む回数の差が、そのまま両チームの出来の差として発露した前半となりましたよね。

ただ、後半になると、まったく構図が逆転します。常磐木が選手交代でリズムを取り戻し、道上選手も、よりゴールに近い位置で自分の形のプレーを次々と披露するようになったのに対し、日ノ本の川原は、少し窮屈そうなプレーが多くなります。

理由は、常磐木守備陣のパフォーマンスが向上したというのが大きいんだと思いますが、同時に、先制された日ノ本が大型FWを投入してサイドアタックを指向するようになったことで、その起点として川原選手が右SHに配置転換されたことの影響もあろうかと思います。

それにしても道上は凄かったですね。なんなんでしょう、あの存在感。ホント、男子フル代表の本田みたいな感じ。ありとあらゆる場所に姿を現し、攻撃の起点としてボールを収めたかと思えば、スペースに走り込んで使われる側としても機能する。さらに、右へ左へ流れると、そこから‘オラオラどけどけ’とばかりに直線的な突進でゴールを脅かす、しなやかかつパワフル。腰とか膝とかに爆弾を抱えるみたいなことにさえならなければ、今後、数年間という単位でお茶の間を賑わせてくれそうです。

神村学園 1 vs 5 京都精華[高校女子サッカー 01月16日]

えと、この試合は事実上50分です。いや、もちろん45分ハーフで戦っているんですよ、選手達は。ただ、如何せん、男子の選手権における日テレと同様に、TBS様も、どうしても「ムリヤリな編成で複数試合を放映する」という選択肢を余儀なくされるらしい。

やっぱり、スポーツというのは編集してしまうと、魅力が半減するわけで。正直、だったらダイジェスト番組で十分なのですよ。どうせ得点シーンの前後とビッグチャンスのシーンしか映さないのであれば。サッカーの醍醐味というのは、ある意味、ゴールキックの間合いでじっくりフォーメーションを確認するところにあるようなもんですから。

さて、女子サッカーを見ていると、髪型は概ね2種類に分かれます。ショートカットとポニーテールですね。まぁ日常生活においても、大きく見れば、この2種類なわけですが。で、それぞれヘアバンドをしたりしなかったりで枝分かれする。だいたい、7:3から6:4くらいの割合でショートカットが多いでしょうかね、印象的には。

ただ、この試合を見てると、なんと神村学園の選手は全員がショートカットでヘアバンドもしていない。要するに男子で言うところの〈全員、ボウズ頭〉状態ですね。さすが九州は鹿児島の代表校。封建的価値観の権化です。

どうも、日本のスポーツ教育においては〈封建的精神論を以て尊しとなす〉という価値観が抜けきれないらしい。野球に至っては、もはや、それが共通の美徳として揺るぎようのない鉄則の域に達していますが、サッカーにおいても、かつては国見やら鹿児島実業やら、つまり、九州の学校を中心に、前近代的な価値観を是とするチームが覇を競ってきました。

で、そういう価値観というのは、ようするに〈しごき〉を是認する価値観なわけで、しかも、そういう〈しごき〉的なチームが高校サッカー界では強豪の座を占めてきた。布監督の時代の市船とか。ただ、そういう「巨人の星」的な世界観に感化された年代の指揮官が一線を退き、指導者に世代交代が進むと、例えば鹿児島実業に代わって鹿児島城西が台頭してきたように、「あの時代だから許された」的な指導方針のチームが全国の舞台で躍進することは随分と少なくなりました。

男子の高校サッカーで決勝に進んだ両校の監督は口を揃えて「選手にサッカーを楽しんで欲しい」といった趣旨のコメントを繰り返しますし、スポ根の総本山とも言える女子バレーの世界でも、タイムアウトの際に「〈頑張る〉んやない、〈楽しむ〉だぞ!」とハッパをかける監督さんがいらっしゃいました。

でも、それでもやっぱり〈全員、ボウズ頭〉みたいな世界観の高校が全国大会の決勝に進んだりするんだな、と。そういう封建的なスタイルにも成果を出すための一定の合理性が付与されてしまう状態にあるんだな、と。

・・・ちなみに本エントリーの内容は、実は決して神村のことを論じているわけではありません。髪型だけの要素で、あれこれ言えるわけもないので。

本当に言いたいのは、世間を騒がせているどこぞの高校の事件を考える上で、原因をそこの学校の体質だけに矮小化してしまうと問題の本質を見失うぞ、ということです。むしろ、そういう前近代的なスタイルでも、それなりに結果が出せてしまうところに、日本のスポーツ界が抱える最大の難点があって、それは結局どこかにそういう教育(?)方針を無意識のうちに是認してしまう価値観がに根付いてしまっていて、そういう指導を受けたとき「自分のためになるから、よし、頑張ろう!」と奮い立ってしまうメンタリティを1人1人の日本人が知らないうちに身につけてしまっていることにの事の本質があるんじゃないか、ということです。

もっと言えば、元を正せば日本という国が近世後半以降、築いてきてしまった〈‘武士道’なる虚像に基づく精神論を過度に美化する文化〉に問題の根源があって、〈全員、ボウズ頭〉も〈しごき〉も〈物理的懲罰〉も、非論理的な教育理念を、封建的価値観というフィルターを介することによって、あたかも合理性があるようにカスタマイズされてしまう、なぜか成果らしきものが出てしまうという意味では、構造が通底しているのではないかと思います。