「日本サッカーの成熟」の周辺をウロウロと…

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日本にサッカーという文化は普及しているのか、という少し大風呂敷を広げたお話をしてみようかと思います。

皆さん、朝、河川敷とか散歩したりします?

以前、日曜日だったか土曜日だったかの午前中、江戸川区かどこかの河川敷を歩いていました。

そうすると、河川敷の脇に小学校がありました。で、その小学校のグランドに隣合うように河川敷のグランドも2面ありました。つまり、極めて狭いエリアにグランドが計3面あったわけですね。

そこで、しみじみと実感したんですが、野球って凄いですよね。

いやですね、その3面全てで少年野球が練習してたんですね。日本には、どんだけ多くの野球少年がいるんだと。

しかも、もっと凄いのは、ちゃんと各チームごとにコーチ的な人がいるわけですね。もちろん確認していませんが、小学生のチームですから、指導者がいないとは思えない。

当然、そういうコーチさんって、言い方は失礼ですが、その辺のおっちゃんが、ほとんど手弁当でやっているんだと思います。

つまり、日本には、少年野球レベルなら指導できるっていうおっちゃんが、至る所に溢れかえっているわけです。

これって凄いことですよね。

翻って我らがサッカーはと言いますと、1つの小学校につき1つ以上のサッカー少年団を作れるだけ、手弁当で面倒みてくれるおっちゃんがいるだろうか、と言われたとき、なかなか微妙なんじゃないでしょうか。

野球の場合、小学校高校のどこかで野球をやっていた、かつての野球少年が、必要とあらば大人になってからでも、昔とった杵柄を再度引っ張り出してくるというサイクルができている。

残念ながらサッカーでは、「若い頃サッカーやってたから、面倒みたろ!」と言える大人の絶対数が少ないかと思われます。

やはり、そこには厳然とした歴史の差がある。野球の場合、玉子焼きを食べながら青バット赤バットを応援した世代、王と長嶋に国民が熱狂した世代、更には甲子園を席巻するKKの姿が幼心に焼き付けられている世代と、ざっくり3世代に渡って国民的スポーツであり続けた。

残念ながら、サッカーには、そういう意味での成熟度がまるで不足している。

皆さんは、送りバントってご存知ですか?ご存知ですよね。では、何歳くらいの頃、「ノーアウト一塁で下位打線なら送りバント」という方程式を覚えましたか?

推測で申し訳ないですが、特に野球ファンでなくとも多くの人は、「物心ついた頃には、なんとなく知っていた」って感じじゃないでしょうか。

なぜ、物心ついた頃には知っていたのか。

きっとそれは、物心つく前に周囲の大人が、そういったウンチクを語り合っていて、その内容がなんとなく耳に入ってくるうちに、自然と身に付いたからだと思いうんです。

要するに野球の場合、

「大抵の大人は野球を語れる。そして、そういう大人に囲まれて育つ以上、特に野球ファンでなくとも、多くの子どもも野球を知るようになる」

という構図がしっかり出来上がっているんだと思います。

近年になって「スモールベースボール」なんて名前が与えられ、世界に強く知らしめられた「日本の野球」ですが、別にこれは、一部のオピニオンリーダーによって実現したものではないでしょう。

日本人の共通見解として「野球の基本は送りバントとコントロール」みたいな価値観が当然のように浸透していたからこそ、それを選手たちは忠実に表現できたんじゃないでしょうか。

「日本人にとって野球とは、こういうもの」という像が、選手や特定のファンを越えた規模で共有されている。これくらいになって初めて、「文化として根付いている」と言えるんだと思います。

では、サッカーはどうか。「特にサポーターでもないおっさんが挨拶代わりサッカーの話をしていて、自然と子どももサッカーに興味を持つようになっている」なんて状況は、日本には存在しないのではないか。

フジの中継などでゲストのジローラモさんが語っている内容を聞いていると、イタリアでは、上のようなメカニズムが出来上がっているように感じます。イタリアではサッカーが文化として成熟しているということでしょう。

他方、日本。

「サッカーを見るのは一部のサッカー好きで、その他大勢はオフサイドも知らない」

これが日本の現実だと思います。これが日本におけるサッカー文化の成熟度。

こういった「サッカー文化の成熟度」という物差しで計ったとき、日本は世界で上から16番目に入っていると言えるのか?

結局は、この話になるのですが、ワタクシの見解としては「否」です。

そして「サッカー文化の成熟度」が上から16番目に入らなくとも、それでも岡ちゃんにはWCで決勝トーナメントまで行く義務があるのか?

この点についても、ワタクシの見解は「否」です。

では、岡ちゃんは、日本らしいサッカーを世界に披露する義務はあるのか?

これまたワタクシの見解は「否」です。

日本らしいサッカーなんてものは、日本においてもサッカーが文化として成熟して初めて、その尻尾が遠目に見えてくるものだと思います。

くどいようですが、「文化として成熟する」というのは「特にサポーターでもないおっさんが挨拶代わりサッカーの話をしていて、自然と子どももサッカーに興味を持つようになっている」という状況を指します(もちろん個人的見解ですが)。

そういう状況が一朝一夕に出来上がるわけがありません。まさに〈百年構想〉です。

おそらく、我々が「これが日本のサッカーかも」という感触を朧気ながら掴めるようになるのは、1322歳くらいのとき2002日韓大会に胸をときめかせた世代の、子どもの世代が日本代表の中心選手になった頃ではないかと考えてます。早くとも、あと20年くらいはかかるだろう、と。

そして、「これが日本のサッカーだ!」と胸を張って、世界と渡り合えるようになるのは、更にその次の世代まで待たなければならないんじゃないかなと思います。

日本のサッカーを愛する人々に、いま必要とされているのは、50年待つ覚悟、早過ぎた世代として捨て石になる心意気なんではないか、そう思います。

お互いに頑張りましょう。